シンゾーさんからのおたより-その36

2007.11 

おまけ “チャリdeシルクロード”

 10月某日シルクロード雑学大学の長澤さんと会った。長澤さんは20年にわたって西安よりローマの道をチャリで行くという壮大なプロジェクトのリーダーだ。今年はすでに第15遠征隊を送って残りはあと5回で全ルートを完走する。これとは別に敦煌へ行くという特別企画があることを聞き、これはロマンだと感じたぼくは即応募しました。ルートは敦煌の東にある嘉峪関から敦煌まで382kmのシルクロードに点在する遺跡をバスとチャリで尋ねるというもの。日程は2007年11月10日より11月18までの9日間。参加者は自転車5名、ウォーキング2名だが、最高齢は71歳。まー、暇と小銭があるのはぼくのような定年後でないと無理というこっちゃ。
 この道は孫悟空や猪八戒がいたかどうか知らないが、「西遊記」で有名な三蔵法師(法名は玄奘三蔵)が国禁を犯して、はるばる西安より天竺(インド)へ危険と冒険の旅に出たルートでもある。玄奘三蔵は多くの仏典をもち帰り、それらを漢訳した偉大なる法師です。日本にも深い影響を与えた。興味のある方は奈良の薬師寺を尋ねてみてください。  >>ルートマップを見る<<

 11月10日成田より上海を経由して古都西安に到着する。西安は盆地で雨も降らないため、スモッグがひどく、いつもどんよりしていて青い空がない。

上海浦東空港内


 11月11日 西安に来たらあの兵馬俑を。1974年農民が井戸を掘っている時偶然発見された。一人一人異なる顔、その数が6000。当時の顔には写真のような色がついていた。

兵馬俑
 
 

   
 午後西安より空路嘉峪関へ。着いた飯店で自転車を組立てる。Mさんは今回初めてマウンテンバイクを購入した。来る前の一応の組み立ては教わったが、ペダルの左と右を逆を間違えてむりやりスパナではめ込んだため、ねじがつぶれてしまった。幸いなことに嘉峪関には専門のバイク屋があった。しかもクランクごとShimanoの部品に取り替えてたったの200元(約3000円)。日本だったら1万円以上かかるのに。

西安より嘉峪関へ
自転車の組み立て


11月12日 嘉峪関の“関”は文字通り、関所のことで辺境の要塞であった。高さ11m、一辺160mの正方形をした建造物。ここには明の時代の長城が残っている。西に5000mを超える祁連山脈がある。ここから74キロほどチャリに乗る。道路はいいが、風が冷たい。嘉峪関市は今、鉄鋼の町に生まれ変わっている。

嘉峪関全体
 
祁連山脈
長城
初走行
この道ははるかウルムチまで続く


 安西と嘉峪関の間の布隆吉には風と太陽で侵食された独特の雅丹地形がある。安西は風の強い地区で特に4月、5月には砂嵐が発生する。中国の“HERO”という映画にはここのシーンが出てくると案内人が言うとった。

雅丹地形
大陸に沈む夕日


 11月13日 車で安西市と玉門市の中間にある鎖陽城へ。鎖陽城は敦煌へ至る重要な軍事基地でモンゴル軍と戦った。この城は唐代のもの。外敵を防ぐ城郭は高く土で盛り、その上に烽火(のろし)台がある。烽火台は烽火があがったのを見るところで城内以外にも小高い丘に3〜5kmごとに設置された。外敵がくると烽火の上がった数でその規模を判断し、派兵する数を決めた。当時この一帯はオアシスであったが、砂漠化の進行で荒野になってしまった。城内の隅に塔爾寺という建物がある。玄奘三蔵はここで説法をした後旅立ったという。

鎖陽城
烽火(のろし)台
塔爾寺


 鎖陽城から瓜州市までチャリ。この日44km。太陽が沈むと急に寒くなり、平地ではペダルを踏んでも汗がでない。
 11月14日 瓜州市より敦煌まで車とチャリ75km。地元で買った地図(2006年1月版)には柳園〜敦煌間には鉄道はないが、今は写真のような列車が走っている。敦煌の駅舎はまだ工事中だった。最近、中国は内陸部までインフラが急速に整備されているのがわかる。

敦煌へいく列車
工事中の敦煌駅


 11月15日 古代辺境の関所のうち、知名度が高いものは南の陽関と北の玉門関だ。陽関は2200年前に漢の武帝によって造られた軍事・交通の要所で、その後も魏、晋、南北朝、唐代まで西域南道の関所として経営された。玄奘三蔵もインドから帰国した際ここを通過している。陽関、どこかで聞いたような名前だなーと思っていたら、案内人が教えてくれた。
 インターネットで調べました。王維は盛唐の詩人。字は摩詰(まきつ)、山西省太原の人、開元19年(731)の進士。弟縉(しん)と共に幼少より俊才。官は尚書右丞(しょうしょゆうじょう)に至る。55歳の時安禄山の乱に遭遇し、賊にとらえられ偽官の罪を得たがのち赦される。晩年もう川(もうせん)に隠棲し、兄弟共に仏門に帰依する。又画の名手にして南宗画(文人画)の祖となる。

渭城の朝雨軽塵をうるおす
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に尽せ一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば故人無からん

今は陽関博物館になっている
王維像
烽火台


 敦煌の郊外まで車に乗り、チャリで玉門関へ61km。ゴビ砂漠のど真ん中。最近舗装された道だが、3時間で出会った車は3台だけ。なだらかな下り坂で快適でした。地平線はみえるが、見渡す限り土漠以外何もない。でもこんなところにも長城がある。農耕民族であった漢民族は北方の脅威がいかほどのものであったか容易に想像できる。

ゴビ砂漠を走る
今は風化して低くなっているが、ここにも長城
玉門関遺跡


 玉門関から4kmほど離れたところに漢代の長城が残っている。

漢代の長城
側面詳細
これが烽火(のろし)


 11月16日 莫高窟へ。492の石窟が蜂の巣のように4から5層になっている。最初の石窟は秦366年に始められ、その後1000年にわたって拡大したもの。窟内には仏像や壁画が昔のまま残っている。もっとも大きい仏像は高さ35.5mもある。1879年ハンガリー人によって偶然発見されたが、その後イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、日本の調査隊により4万件もの仏教遺書の大半が国外に持ち出された。

サポーターと(うしろに見える小さい窟は石窟作業で寝泊りしたところ)
九層楼(窟の入り口にある)
第437石窟


 敦煌の南約6kmには細かい砂が堆積した鳴砂山がある。砂漠の表面温度のため、砂が自然に移動し、雷鳴のように音を轟かせていたと言う。このふもとにある月牙泉は次第に水深が浅くなり、数年前は5mあったが今は1.5mしかない。農地の開発で地下水をくみ上げるのが原因らしい。主な農産物は綿花、小麦、ぶどうにとうもろこし。冬は寒いのでぶどうのつるは棚からとりはずし、土中に埋めて保護する。この日の気温は最低-5度、最高11度。敦煌は観光と農業の街で観光客の半数以上が日本人だ。

 
 
 
 
月牙泉
ぶどう畑


 この旅も終わりに近づいた。長澤さんの発案で友好の一環として敦煌職業技術培訓中心を訪問し日本の本を寄贈する。生徒の皆さんは日本語のコース専攻でその目は輝いていました。

ぼくの右隣が長澤さん
バザールにて(中身の赤いカブはめずらしい)


 11月17日 空路西安へ。そして大雁塔へ行く。652年天竺から帰った玄奘三蔵法師の願いによって、境内に大雁塔を建て、経典を保存したところ。煉瓦でできており、当初は五層の塔であったが、則天武后の時代に大改造を行い十層になった。ここには平成天皇や海部元首相と一緒に撮った普慈法師の写真があった。普慈法師は8年前に死去されたが、文化大革命で弾圧の中でこの塔を護った。書道家としても著名でその書は塔の保全費用にあてるため販売されている。

大雁塔
玄奘三蔵像
普慈法師の書


 自転車の旅は自然とその地域の暮らしを肌で感じることができる。中国は広かった。そして中国は今目覚しい経済発展をしている。毎年鉄道は2000kmも延びているし、通った道も最近舗装されたばかりだ。われわれが出会った中国人は皆親切だった。日本人の多くは中国という隣国に対しては食の安全性や反日的な報道がクローズアップされ、あまり好意的ではない。でもかつて太平洋戦争を起こした日本の平均的な日本人と同様、普通に暮らしている中国人の大多数は時の流れに押し流されることはあっても同じ人間だ。たとえ社会制度が異なっても。関口知宏はわれわれと奇しくも同じ時期、敦煌を尋ね、そしてカシュガルまで行った。その映像を見てぼくもカシュガルまで足を伸ばしてみたくなった。3万6千キロの中国鉄道大紀行の終わりに彼はこう言った。

     「異郷有悟」異郷にて我を知る 

 シルクロードには悠久の歴史の重みがある。ここを訪れるとき、さまざまな視点で興味深いものに気付く。定年後の生きがいがシルクロードから見えてくることもある。

2007年11月

 

PS 敦煌の物価は安い。ビール大瓶2元、ズボンのすそ上げ3元には感激しました。

*シルクロード雑学大学主催の「ツール・ド・シルクロード20年計画」第15次遠征隊の報告は読売新聞社より女性記者が同行しており、読売新聞朝刊紙の11月27より12月1日までの5回にわけて掲載されます。 

>>11月27日の記事 28日の記事 29日の記事 30日の記事 12月1日の記事 

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